世界中のダンサーの皆さま、ごめんなさい。
ぼくはダンスというものがわかりません。
(偉そうに書いてますが、そういえば昔スネークマンショーに「わたしは歌が歌えません!」といって大拍手を貰う、っていうドラマがあったよ。知ってるかい。笑った笑った。)
リズムに合わせて踊るというのは自分じゃあまりやりませんが、部族の踊りとか、雨乞いの踊りとか、盆踊りとか、獅子踊りとかそういうのは異常に好きです。じゃあ何がわかんないかというと、アイドルの歌の振りとかバレエとかジャズダンスとかディスコダンスとかです。もっと分ければ分けられないこともないですが、そうすると個別になっていきますのでまあおおざっぱにこういう事にさせておきます。(バレエでも大昔にテレビで見たローラン・プティの「コッペリア」は感動しました。)
まあ、大体嫌いなもんですからわざわざ観もしませんし、勉強もいたしません。なのに、姪などがダンスをやっているというので、去年は世田谷区民会館まで観に行きました。ちびっ子からお母さんまでダンススクールの発表会。いろんな利害関係があるので写真も撮れないような催しです。中で一番上手だったのは、まあどう見ても我が姪、エミちゃんだったと断言できます。
バレエがなんでぼくにはつまんないかというと、彼らは「飛翔」を求めて肉体の限界まで訓練するのだけれども、結局飛んだら着地せざるおえないところがある。地上で飛び跳ねているうちは、重力がかかるから、つま先をどんなに尖らせて美しく優雅に飛び上がっても着地させられちゃう。跳ね上がるときの曲線に比べて見苦しい落下するときの曲線。どんなプリマにも跳び続けられない苦悩が背負わされているように思えちゃう。まあそればかりではないけれど。
ひるがえって日本的な舞踏のやり方では飛翔を踊るときに飛ばずに跳びを表現する。天女も天狗もさかづきも観音菩薩も飛びたいだけ飛んでいる。これが愉快というものだ。
(門外漢のこんなたわごとを信じないようにしておくれよ、ベイビー)
さてそこで先日の関さなえ・ソロダンスの公演というかライブ。場所はちいさなワンルームマンション改造の画廊。「携帯の電源を…」と本人自ら案内するような親しみのある催しですが、ダンス衣装に早変わりして出てくる、腕を上げて壁を使う。するとどうでしょう!部屋がゆらゆらと動き始めるのです。そしてその空間は、観客を乗せたまま宇宙船のように回転し始めると、ダンス・エンジンで遊星間遊覧飛行にでるのです。
動きそのものはオーソドックスなダンスの作法(多分)なのですがどこか重力が違っている。先端まで行かない。極限まで張りつめない。けれどもその先にあるものを匂い立たせるに十分な動きの魔術。他と似ているようで、まるでどれにも似ていない手や足の動き。
オペラ歌手が喉のみならず、身体のみならず、会場そのものの空気を圧縮したり膨張させるのに似た幻惑感。彼女のダンスは最初から重力に降伏しているので無駄なもがきはいたしません。昨年などは、床にはいずってまで「やむにやまれぬ動きをうごめく」みたいなダンスを織り交ぜてしたくらいです。踊りを踊る空間遊覧飛行のナビゲーター。勅使河原三郎のようにめくるめく空間を出入りするのではなくて、或る一空間を変容させる推力を持ったダンスが関さなえのダンスなのだな。途中どこにいるのだかわからなくなるが、気がつくとここに戻ってきている。そんなダンスなのだな。
おととし、去年まで、オブジェというかモビールのような短編小説のようだったのが、今年はすっかり流れを絶やさずに変化し続ける液体のようでありました。
(自分用のメモとして)
もっと多くの人に知られてもいい才能だと思うんだけどなー。もったいない。