日曜日に逗子の食堂でラーメンを食べていたら「さくらさくら」と連呼したあげく「君に会えたなんたらに感謝〜♪」とかいう曲が流れてむかついた。
なんだおまえらは、と思う。
そんなことしか歌うことがないのかピンフだなぁ〜。危なさの無さがさらにタンヤオ。しかもありふりすぎててフリテンだ。結果上がれない手で上がっちゃってチョンボだよ。
満貫払え。ラーメンは味が濃かった。
ありふれた写真でごめん。写真がないよりゃある方が賑やかでよい?音楽がないよりゃあったほうが賑やかでよいのかしらん。ラーメン屋に音楽はいらないだろ?そば屋にJBLで鳴らすジャズもいらないと思う。ブログにありふれた写真、載せちゃあイケマセンか?
なんだオレは?逆ギレか?どこかでさかしまってるな。
はははは〜〜〜〜っと。
信仰は、信仰を説く人の中になくてひたすら祈る人の中にある。数多のぼーさんは得々とした顔で「悟りとは」などと語るが、「とは」などと云っているうちは説明できるもんではないと思う。とかいうオレは「悟り」には興味がない。
無駄でいっぱいにしようとしている。無駄は良いなぁ。無害で役立たずな無駄。片付けられない無駄。いびつな無駄。無も超コンヒュージョンも同じだろ?われわれはそれぞれが時の潮流に結ばれたちいさな結び目のようなもので、いずれほどける。始まりも終わりもなく常に途中なのだ。
高校の美術教室で時間を忘れて暗くなるまでデッサンをしていて見えてきたのはそういうことだった。デッサンは物の形や量感や質感や光を写し取る作業ではなくて、物の奥行きを見る訓練だった。(といっても石膏デッサンはやらなかった。ひたすら手を描かされた。)
ただ、そういった見え方も真実めいているだけで、すべてオレの思い込みなんだろう。だけど無害ならそれを信じても悪くはなかろ?
偉そうなことを書くと気分がいいな。だけどこのブログには真実はない。
「フォーマ(無害な非真実)をよるべとしなさい。それはあなたを勇敢で、親切で、健康で、幸福な人間にする」———『ボコノンの書』第1の書第五節
「猫のゆりかご」カート・ヴォネガット・ジュニア