濃尾平野一帯の人たちから親しく「おちょぼさん」と呼ばれる「お千代保稲荷」に、母が行きたいというのでドライブ。実家から木曽川・長良川・揖斐川の三つの大きな川を渡ってちょっと。いつも養老へ行く途中に通りすぎているそこが日本の呪いのメッカなのはあまり知られていない。
お稲荷さんなので、好物のあぶらげをお供えする。
どうやら不届きものが占いを盗んだらしい。きっと呪われて目が潰れ内臓が焼け悶え苦しみながら死んで地獄で髪の毛を食わされ続けるに違いない。
ホーキング博士が「あの世など無い」と言ったらしい。ぼくも似たような考えだ。別の世界があるとは思っていない。だけどあの世はあると思っている。そこを「意識」できるかと言われれば出来ないかも知れない。
仏教の世界観には六道という界があって、その上にいく段もの昇華されていく世界がある。(下品下生から上品上生といったかしらん?)いちいちそういう世界がドアを開けた向こうの部屋にあるとは考えない。曼荼羅のように線で区切った孤立した世界があるのではなく、グラデーションのように常に別の色への途中にあるような世界が連続しているのだと考えている。
だれもわからなくてもいいけど、すべての物質は水のように流れて、透き通り混ざり合っている。そういうものだと思う。仏教どころか大乗の教えすら学んだことはないけれども、つまりはそういうことなのではないだろうか?
ある時、物質が「在る」のか「無い」のか気になって自分の知り合いのなかでは一番優秀な宇都宮さんに以前訊ねた。「物質って在るの?」
急な質問に「どうやらギリギリあるらしい」と答えてくれた。ぼくにはかなり意外な答えだった。
あらおかしな話になった。
おちょぼ稲荷の周りは、細い参道にわいわいしたナニヤカヤのお土産を売るお店がいっぱい。鰻や鯰を食わせる食堂とか地元の野菜とかどて焼き串揚げの立ち食い。などなど。
さんざん歩いて帰りにあれを買おう、これも買おうと思っていたら、車を停めたところから一番遠い八百屋で母が10kgもらっきょうを買った。段ボール箱。帰りになにも買えず。仕方がないので一度車に置いてまた小道へ。どて焼きを食べて白いシャツに味噌だれのハネが飛ぶ。これはどうやって食べても無事では済まない。
だけどおいしいどて焼き、串カツ、どっちも一本80万円。十本食べて一千万円払ってお釣りが二百万円。