久しぶりに浅草へ。
「雷門前の地下駐車場はいつも空いているので」と、行ってみたら長蛇の車の列。勝手知ったる浅草なれど…。来る途中、浅草橋の呉服卸街を通りがかると「素人お断り」という看板が目に入った。バイヤー以外お断りというのになんだか穏やかじゃない断り方だな〜?などと思って通り過ぎた。
こういうきっぱりした断り方って最近あまり見かけないので気持ちがいい。
浅草は今までに見たことのない混み具合だった。ちょうどほおづき市と選挙が重なったからだろうか?「レンホウギインガガアトゴフンデトウチャクシマス!!」とか叫びまくっていて辟易した。四万六千日ということで雷除けを入手。
そして「関さなえソロダンス公演『囲』」
ぼくはダンスのことなどなにも知らないので、とにかく観ていて「なぜこういう動きなのか?」を知りたくなってしまう。理由などどうでもいいし、むしろ無い方が舞踏的には情念の浸透力があっていいのかも知れないけれど、どうしても素人は理由付けをしたくなるのだ。
しかも困ったことに玄人の論からすれば実に低次元かも知れない。それでも、まあ考えたアレコレを書いてみたくなるのが素人の恐ろしさなのだな。生兵法というか…以下、そんな怪我の元。
「営みー生活=動作」
日常の営みから生活に必要な動きを引き算して、「これやりたい」と思うような動作だけを美学的に抜き出して編集したら関さなえのダンスになるのではないかしらん?しかしそれはやはり希な美学的センスによって選ばれた動作に限られる。
例えば、ふくらはぎを指先で揉む動き、指先をぬぐう動き、悔しくもないのに足踏みをしたり足踏みの仕方を工夫したり、嬉しくもないのに手を振りながら振り方を工夫してジャンプしてみる。その他いろいろ。目に見えないテーブルの汚れを拭いてみる、とか、見たことない地下道のポスターを剥がしまくってみる、着ていない長袖のシャツをまくるような行為とかとかとか。そんな「もの動作」が実に流れるように組み立て直される。
その連続はぼくには、タルホ的に言えば、ふと振り返る途中に垣間現れる薄板の世界。デュシャン的に云えば「階段を下りる裸婦」に見えてしまう。こんなダンス他にある?
「勅使河原三郎」?テレビで見てびっくりした初めてのダンス?舞踏?見てみたい。
そういう動作はどれもやってみると楽しくなりそうだ。バレエのように宙にいることに憧れ続けるような苦悩はないし、情念を届けるために緊張感を持続させ続ける苦行も必要ない。
ぼくはあらゆる表現行為にもそうだけど、とにかくダンスにはほとほと素人で、他でどんなダンス公演があるのか知りもしないしほとんど見たこともない。「維新派」とか「少年王者舘」とか「パパ・タラフマラ」のダンスパフォーマンス、「天井桟敷」や「万有引力」中の舞踏的な動作や知人の関係で何回か観た「モダンバレエ」くらいしか知らない。
どれも超日常を目指していて、超日常をあらかじめあきらめている(と思える)関さなえのダンスとはベクトルが違うように思える。
そしてただただ絶賛するのみ。素人目にそう見えるだけなのかも知れないけど。
ぼくはたまたま30年来の知人なのでこの現場を目撃することが出来たけれど、観客が少なすぎる。もったいない。舞台は録画も再現もできない瞬間の連続です。無名の天才はもったいないものだなー。
ただ前回、不快なパフォーマンスの人の公演にゲスト出演があって、少なからず観客が苦しい思いをしたことがあり、評判を下げてしまっていたかも知れないのが惜しいのだなー。