日曜日は午前中に新幹線で東京に戻った。あまり座ったことのない富士山側の席。氷山の九角みたいな富士山。
品川で下りて、何とかかんとか乗り換えて西巣鴨。廃校になった学校でやっている維新派の芝居「ろじ式」を観に行った。
早く着いてしまって「どうしようか?」と思っていたら、会場(校庭の一角)に露地が作られていて、あばらやが露天になって、ジャンクな温かい物を売っている。ありがたや。スパイスのきいたココアを買ってテーブルにぶちまけたり、また作ってもらったりしているうちに時間が過ぎて、友だちが集まってきた。
維新派は、大阪にいた1980年頃に名前は聞いたことがあった。チラシの感じからどことなく唐十郎風なものを思っていたけれども、正確にはまったくどうだかわからない。ペラペラの模造紙に朱色一色の印刷だったからそう思った。
現在の維新派のポスターはまったく素晴らしく、ただそれを見ただけで観たくなってしまったのだ。ついつい誘いあわせて総勢10名。
写真がないので奈良の土塀。
体育館に作られた席に着くまでに骨の標本があれこれ。着席すると舞台上にも骨の標本がほんとうにいっぱい。直方体のアングルに宙づりにされて、空間に固定された魚やら鳥やら哺乳類やらの骨また骨。様々の大きさのアングルは箱の様に積み上げたり、解体されたりして変幻自在の舞台を構築する。
ピンクフロイドの「ウォールコンサート」みたいな演出を勝手に思ってしまったり。しかしこちらは最後にすべて片付いて広々とした空間に人が踊り歌う。背景に残された標本箱には自転車とかあとなんだっけ、露地に落ちていそうなガラクタみたいなものが骨の代わりに吊られている。
舞台は、芝居というには言葉に力がない。ダンスというには新味がない。動きや発声にダイナミズムはない。無機質なほどに整っているわけでもないし、有機的というほど色彩があるわけでもない。枯れているわけでもなく生まれているわけでもない。彷徨ってもいないし呼びかけても来ない。探さないし謎もなく発見もしない。
美術と構成力で勝負?量感や情感のないのが現代風なのかしらん?よくわからない。全体に退屈だった。しかし退屈は悪ではない。どちらかというと好きな方だ。
比較してしまう少年王者舘の圧倒的な圧力?ノスタルジアは色彩の力なのか?維新派の照明はあくまでも色づけのないタングステン光だった。
あまり自分でわからないものに理屈をつけても仕方がない。おいおいジンワリ感想が出てくるかも知れない。今残っている印象は悪くはないし。1980年代にはこうした感情を廃した模型のようなユートピアが好きで、それを「やってみたい」気もしていた。(今になるまでまったく何もやってないけど)しかしこれはこれで作り上げるのはかなり大変なことだと思う。他の作品を観てみたい気もする。気もする、、、などと曖昧な言葉では失礼すぎるけど。
ただ、後ろに座った女子チームにはエアコンの「寒風」が吹いて八甲田山状態だったらしい。眠ったら死。しかし眠りを誘発する反復の言葉とダンス。強敵だったようだ。