昨晩、wowowで「オペラ座の怪人」を見た。というか延々見続けて、ラストあたりで断念した。
最初の方は曲も良くて、美しい歌声と美男美女、華麗なオペラ座の映像風景。離ればなれになっていた幼なじみの出会いといった映画の要素に惹きつけられていたけど、だんだん曲が成り行き任せのように聞こえだし、大げさなばかりでちっとも盛り上がらないドラマにうんざりしちゃった。ノレなかったということです。
昔、むか〜しの白黒映画の「オペラの怪人」は「車に跳ねられても起きあがって走ってくる」みたいな場面があって、無類に恐かった。(今調べたら1925年製作?ということは車が走るわけないね。変だね。妙だね。寿司だねくだせえ、旦那さま。)
今なら怪奇映画で轢かれても生き返ってくるなんてのは当たり前だけどさ。とにかく恐怖映画だった。
昔の藤子不二雄の恐い漫画の顔にちょくちょく似たような感じのが描かれていたような気がする。「怪物くん」?かなぁ〜。「魔太郎が来る」?うろ覚え。
そういえばデ・パルマの「ファントム・オブ・パラダイス」もクレイジーだった。あれ?ありゃ、「パラダイス」か。
怪奇恐怖ものからロマンスものへ変貌する物語は少なくない。最近では奇怪な連中が悲劇的な背景を背負って生まれ変わり、物語も哀愁を帯びたトーンで描かれたりすることが多くなった。そういう時代なんだろうか?哀愁が受ける時代。ロマンスの欠落した時代?
夜や暗闇の中には、人が見いだしたいものが見いだせる。人が見いだしたいものとは人によってさまざま、また時と場合によってもさまざま。ドラキュラやフランケンシュタインや油すましやドン・ルーミリーもそういう闇の世界の住人なので、どのようにでも見方を変えて見ることができる。
クリストファー・リーの頃のドラキュラは恐かった。恐さゆえにエロティックさがひきたち、消え去ったときの空虚感に手応えがあったものだ。
映画じゃないけど、怪奇恐怖もののモチーフを使ってこれ以上ないほどのロマンスを表現したのが「ポーの一族」だといってもいいと思う。
ぼくは「ポーの一族」が読めると云うだけで「日本人に生まれてよかった」と思うことがある。その他いろいろ、日本語の愛すべき作品というのはとても多いですね。
ぼくの漫画の単行本は実家に置いたままになっていて、高校〜大学時代の本棚にそのまま置いてあり、実家に帰ったときには寝る前に本棚から何冊か選んで読みます。
「ポーの一族」にするか「マカロニほうれん荘」にするか。けっこう迷って「ねじ式」を選んじゃったりすることもあります。先日は、「ポーの一族」を一気読みしました。
ところで「ポーの一族」って、火事の中、アランが時計と一緒に落ちていって…あの巻で終わりなのかな? ぼくはずーっと次を待っているんです。まるで出掛けていったまま帰らない猫の帰りを待っているようで、すごく心許なく儚い感じで待ってるのさぁ〜。
ああ「ポーの一族」。逆から書くと「族一のーポ」。いや、なんでもないです。やってみただけ。