「チョー」についてはもうずいぶん前に書いた。かな?
同じような「ゼッタイ」「ゲキ」「ゲロ」とか「ヤバ」とかさらに今ではもっといろいろ使われているだろう頂点をさすような言葉。「どえりゃー」が流行らなかったのは無念。
「ビミョー」にしても中間をさす言葉ではなくて振り幅の最高点を指す言葉として使われている。なので「チョービミョー」という言葉も自然に成り立つ。それによって「深み」なんかまるでない思考や会話にどことなく奥行きが出るような感じがするのが楽しい。
テレビでは賢い大学の先生や研究者が「時代によって言葉は変化する」と好意的に受けているけれどもどうなんだろう?言葉が変化するのはわかる。だけど、
実際はバカだよな。
極端言葉を重用するのは自分の情報の重要性を主張するためと思う。それは友人のなかやサークルの中で自分の重力場を確保するために必修なのだろう。アレを続けるのは疲れるのではないかと思うけれども、生まれながらずっとそうして底上げ情報で笑って生きているとああでないと却って不安になるのだろうと勝手に思う。
「オタク」というのもそうやって生まれた。自分の情報の価値が高ければ仲間うちでも良い地位でいられる。だから細かい変なところを記憶にたたき込む。細かいことではっきり勝つのだ。あらゆるジャンルでそういう現象になっている。
そんなふうに思ってしまうのはただの若さへの嫉妬かもしれない。
しかしホントに大事なのは世界観で、些末なことや細密な部分は制作者が気にしておけばいいのだ。(いちいち言い間違いを指摘して大笑いするTV出演者にはがっかり。とか急に話が逸れる)世界観には優劣も勝ち負けもない。相手を尊重するのひとこと。これがビートルズの世界。愛こそすべて。
しかし「系」という言葉は、モノゴトをうまい具合にぼかすなあ〜。
「お客さんは出身は?」
「山形です。」
「はあ山形系ですか」
「系ではなくて県です。おおざっぱ系ですね」
「すると北陸系ですか」
「当たらずしも遠からず系の東北系です」
「するとズーズー系ですね。ねぶた系のお祭り系に参加系ですか?」
「ねぶた系は青森で山形は花笠まつりです。」
「花笠というと『星くんぢゃっどばってんたい』系で?」
「お、見えない系。どこにとんだ?」
「ほれ、飛雄馬のライバル系で自動車財閥系の」
「ホレってなんぢゃ」
「明子さん、結婚して下さい系な玉の輿系な」
「明子さん?」
「花笠さん!明子さん!」
「きみはつくづくバカヤロ様系だな。」
この頃、ぼくは髪の毛たくさん抜ける系。ハゲに向かって爆進系です。