昨日のことは今日のうちに書いておかないと忘れてしまう。しかし実際は昨日のことは昨日のうちに書いた方がより細かく正確に覚えているのに違いない。もうすでに昨日のことを今日書く「昨日の今日」というのがいつの「昨日」の「今日」のことなのか判然としなくなっているではないか。もっといえば、その場その場で書き留めていかないと忘れてしまう。記憶の雲母が剥がれて消えてしまうようにもう昨日の現在は空気以上に薄く儚いものになってしまっている。
現に芝居冒頭の柱時計が壊れたところの、猛烈に回転するやりとりでなにが繰り返されていたのか、具体的に思い出せなくなっている。「壊れているんです」?「壊れたんです」?どっちだった?
そういう重大な案件ではあるわけです。
下北沢スズナリ劇場のなんということのない見慣れた入り口の階段風景。25年ほど前、「ブリキの自発団」という劇団と関わりをもった時から変わっていないと思う。
昨日の出し物は、流山児★事務所「田園に死す」。
寺山修司原作とはいえども、のっけから演出家、天野天街のメラメラ燃えるひねくれ根性全開。
台詞のほとんどは、彼独自のしりとりからくりでつなぎ合わされて、時間の螺旋の破片が、いたるところでくっつきあってしまっている。此れはもうデジャブーではなくてやり直しのきかない未来をあらかじめやり直している過去、とよんだ方がいいかもしれない。
尻尾を食い合う蛇・ウロボロスが無限にいて、それがさらに尻尾を食い合っているような面白すぎる脚本。このような蛇が違い互いを食い合っていたら、どんどん短くなっていって最後にはパクッと呑みこまれて無くなってしまう。じゃあ、食べられたものは何処に消えてしまうのだ?消化中の蛇を呑みこんだ胃をさらに呑みこんだ胃は何処へ消える?結局無限は無?
時々針が飛び、時々猛烈な遊園地のティーカップの回転に巻き込まれるような感覚。
とはいえ天野氏率いる「少年王者舘」に比べると滑舌に訓練がおよばない。動きも、溶け出したバターのようにキレが足りないようではあった。
偶然芝居小屋で遭遇した(自称・女子に厳しい)N嬢によるとその不満は相当なモノだったようだが、ぼくは「ユルイ」ので楽しめた。
ラストシーン、映画の「田園に死す」の家のセットが壊れて、都会の喧噪のなかで置き去りにされている風景と生き写しで、舞台人が生きるところへ帰って行く階段風景だった。
此れを観たらさすがに寺山も少しは頬がゆるんだのではないだろうか?
劇中、本家の父役を観ながら何か脳の中をまさぐられるような思いをした。
誰だったか見たことがあるぞ、このデブなおじさん!うう〜〜〜〜ん!
芝居が終わって、チラシで役者名を確認してわかった。沖田乱!
かつてお手伝いした「ブリキの自発団」に片桐はいりがいた頃、主役級になりかけたオキタだった!懐かしい。まだ元気でやっていたんだねえ。けれどこちらのことは忘れられているだろうと挨拶せずに帰った。などなど因果は巡る思いをさせられたおもろい芝居だった。