建てかけの家建てかけたのは家建てたかったら焼けかけの縦笛に家立てかけられず前掛け掛け替え家建て立てかけられない。
ハイホー。
日記のブログなんて云うのは、どこを見ても真面目で親切で思いやりにあふれていて実につまらん。
ツイッターでは、人間がどんどん情報の小粒になり、記号化していく。大衆があらゆるところから明滅するシグナルを送り続ける。それはひとつの宇宙的な風景だけれどぼくには「郷愁」が感じられない。
まるで放送が終わった後のサンドストーム。砂嵐。
1980年代に宇都宮泰が、大阪芸大の音楽工学学科で「サンドストームを見て思うこと」とという課題を出していたのを思い出す。なんだろう?どんな答えが多かったんだろう?
サン=テグジュペリは南方郵便機で北アフリカだったかな?夜間飛行時に、地表に明滅する灯火を見て「人の暮らし」を感じ、ある意味「郷愁」を抱いたようだけれども、ツイッターシグナルにそういう味はあるのかな?
トラルファマドール星人にとって、地球の生まれて消滅するまでが(人間の営みなどまるで無関係に)ただの「よろしく」というメッセージだったように、人類もどんどん個などというエゴや深みを失って粘菌のように全体としてのただの方向性、全体としてただの奇妙な色彩になっていくだけのようだ。全体としてマスゲームのような快楽があるのだろう。
渦中の人に自覚があろうとなかろうと。粘菌に個はどれくらいあるのだろう?押しくらまんじゅうで人類はどこへはみ出る?Twetter、つぶやき何を言っても同じ、通信の意味は希薄になり最後は「パチン!」とスパークするだけ。あらゆる人の信号から意味を消して「パチン!」という音だけ出るようにしたら面白かろう?未来派の人間記号。
ブログやツイッターの人間などパチパチ音の出る段ボールのシルエットで十分代用できるのかも知れない。パチン!金太郎。パチン!金太郎。ごきげんよう。ごきげんよう。
そして、これがいわば宮沢賢治の「有機交流電灯」というやつかしらん??
せめて夏の蝉のかまびすしさのように風情があると良いのだがな〜。ハイホー。
昨日、メジャーリーグの試合が終わってヤンキースが優勝。クイーンの「We Are The Champions」がかかる。
フレディーはもういないのに、と微妙な気持ちになってしまう。どうしてもこの曲がかかるとさびしい、鬱々とした悲しさに包まれる。フレディーはエイズで枯れるように死んでいった。
1991年11月24日45歳。若い。残念。悲しい。